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お茶でも飲んで、ほっと一息ついてみませんか?

玉露で有名な八女市は紅茶の名産地だった?知られざる八女茶の歴史をまとめました。

八女茶の歴史

八女茶は福岡県八女市周辺で生産されているお茶です。

特に玉露が有名で、全国茶品評会玉露部門にて18年連続で産地賞を受賞しています。

しかし、かつて八女が輸出用の紅茶の生産地として有名だったことを知る人はきっと少ないですよね?

この記事では、そんな八女茶の知られざる歴史をまとめてみました。

八女茶について知りたい人は下の記事も合わせてご覧ください。

またこの記事は、八女にフォーカスした歴史記事なので、日本茶全体の歴史を知りたい人には下の記事がおすすめです。

八女茶のはじまり

八女茶の歴史:八女茶のはじまり

1423年、明から帰国した栄林周瑞(えいりんしゅうずい)が、八女市黒木町笠原に霊巌寺(れいがんじ)を建立しました。

八女を選んだのは、周瑞が修行を重ねた蘇州(そしゅう)という中国の地域に似ていたからだそうです。

そして周瑞は、明から持ち帰ったお茶の種をまきました。これが八女茶のはじまりです。

当時の加工法は釜炒りによるものでした。

周瑞はお茶の栽培・製造法と喫茶法を、鹿子尾村の庄屋 松尾太郎五郎久家(まつおたろうごろうひさいえ)という人に教えました。

松尾さんによる太郎五郎久家茶園は今も続いていて、現在は35代目 松尾実さんが後を継いでいます。

不遇の江戸時代

八女茶の歴史:不遇の江戸時代

江戸時代、八女茶は集落で細々と生産されていたようです。

当時は、山の斜面に種子から茶樹を育てて収穫するスタイルをとっており、現在の茶園や茶畑のように管理されていませんでした。

なので大規模な産業として成立させるには厳しかったようです。

八女のお茶は主に地元の久留米藩内で流通していたそうですが、宝暦(1751年~)から明和(~1771年)にかけての時期に、京都や大坂へ輸出されていた記録も残っています。

「鶯」「初花」という名前の釜炒り茶が人気で、これらのお茶は「鹿子尾茶(かこおちゃ)」と呼ばれていました。

慶安の御触書は無関係?

八女茶の生産が思うように伸びなかったのは、1649年(慶安2年)に公布された「慶安の御触書」の影響があったからだとも言われています。

この御触書は、お茶そのものを贅沢品として戒めるものでした。

しかし近年「慶安の御触書」は存在が疑問視されています。

なんせ、全国的に発布されたはずなのに原本がひとつも見つかっていないんです!

聖徳太子は実在しなかったとか、鎌倉幕府の成立は1192年(イイクニ)じゃないとか、教科書で習った歴史は書き変わることがあるんですよね。

流行りの青製煎茶を試作

江戸時代後期になると、京都の宇治で「宇治式青製煎茶(うじしきあおせいせんちゃ)」と呼ばれる新しい製茶法が誕生します。

これは永谷宗円(ながたにそうえん)らが開発した製茶法で、現在の日本の緑茶の原型です。

この宇治式青製煎茶法が八女山間部の農村にも伝わり、古賀平助(こがへいすけ)大津簡七(おおつかんしち)が試作品を作ったりしていました。

しかし、当時は江戸の商人たちによる宇治茶を江戸へ供給するルートが確立しており、残念ながら八女のお茶は市場シェアを獲得する余地がなかったようです。

日本茶の輸出ブーム到来

八女茶の歴史:日本茶の輸出ブーム到来

江戸時代末期になると、ついに日本茶の輸出が始まります。

きっかけは、大浦慶(おおうらけい)という女性貿易商でした。

大浦慶は、1856年(安政3年)にイギリス人のウィリアム・オルトとお茶の取引をスタートさせ、なんと、6トンもの注文を受けることに成功しました。

これをきっかけにして、日本のお茶が海外へ輸出されるようになります。

この注文は嬉野産のお茶の注文だったようですが、それだけでは全然足りないので九州全土からお茶をかき集めたそうです。

それでようやく2トン。そう考えると6トンってすごい量ですよね。

もちろん、輸出された中には八女産のお茶も含まれています。

この日本茶の輸出ブームを期に、八女茶もイギリス人貿易商と直接取引をして輸出をスタートさせました。

あの有名なグラバー商会とも取引していたと言われています。

開港後はアメリカへの輸出が増加

1859年(安政6年)になると、箱館・横浜・長崎で港が開港します。

これによってアメリカへの輸出が増加していきます。

八女茶農家にとっては生産拡大の大きなチャンスなので、八女東部の山間地に続々と茶樹が植えられました。

しかしまだ茶園という形ではなく、山に茶樹を植えただけの形だったので、商品としての安定した生産は難しかったようです。

さらなる問題は「粗悪茶」でした。

日本から輸出されたお茶の中には、質の悪いお茶も含まれていたんです・・・。

我慢ならなくなったアメリカは、1887年(明治20年)に粗悪茶輸入禁止条例という条例を発布しました。

名前のとおり、質の悪い「粗悪茶」は輸入しませんという宣言です。

これを受けた明治政府は、お茶の取り締まりを強化しました。

残念ながら八女の釜炒り茶も取り締まりの対象となり、輸出されなくなってしまったのです。

八女紅茶の栄光と衰退

八女茶の歴史:八女紅茶の栄光と衰退

一方その頃、イギリスで空前の紅茶ブームが起きていました。

アフターヌーンティーという習慣が始まったのがこの時期だったそうです。

この流れに乗っかるべく、明治政府は外貨獲得施策のひとつとして紅茶の生産を奨励しました。

八女でも紅茶の試験場や研究所が作られて、紅茶の伝習が盛んに行われていたそうです。

この頃の八女紅茶の勢いは紅茶史に残るとも言われています。

大正時代になると状況が一変

しかし、大正時代になると状況が一変します。

紅茶大好きイギリスは、アジア圏の植民地で大規模なプランテーション農場による茶畑を開拓し始めたのです。

紅茶に向いているアッサム種での栽培により、高品質で安価な紅茶がたくさん出回るようになります。

しまいにはイギリス国内での生産も始まってしまいました。

さらに、1971年の貿易自由化により海外産の紅茶が輸入されるようになったのです。

こうして八女紅茶をはじめとした国産紅茶の生産は衰退する結果に。

そもそも日本人は紅茶を飲む習慣がなかったので、ニーズに応えきれなかった部分も大きいでしょうね。

玉露の誕生

八女茶の歴史:玉露の誕生

明治初頭、山間部の星野村というところで玉露が誕生しました。

星野村は現在も玉露の産地として有名です。

このあたりは、川が近くを流れていて霧が発生しやすく、その霧がなだらかな山々を包むように広がるので、玉露の栽培に向いているとされています。

山門郡には玉露を作るための栽培法を伝習する修練所が作られ、ここで作られた玉露の一部は輸出もされていたそうです。

蒸し製緑茶の生産が始まる

八女茶の歴史:蒸し製緑茶の生産が始まる

ここまでの歴史を振り返ると、八女で生産されてきたお茶は輸出用がメインでした。

ここからは、いよいよ国内市場向けの生産にシフトしていきます。

当時、静岡製の蒸し製緑茶が大人気だったそうです。

そこで静岡から先生を呼んで静岡製煎茶の研究が始まりました。茶園を管理するスタイルに移行したのもこの時期です。

こうした転換が功を奏し、産業としての蒸し製緑茶の生産が軌道に乗っていきました。

名称を「八女茶」に統一

当時の八女では、旧式の釜炒り茶と、新しい蒸し製緑茶が混在しており、それぞれを「筑後茶」「笠原茶」「星野茶」など、地名で呼んでいました。

そこで、1925年(大正14年)に開催された茶業関係者が集まるイベントにて、三代 許斐久吉(このみひさきち)という人が「新しい蒸し製のお茶を「八女茶」と呼ぶことにしませんか?」と提案。

この提案は満場一致で可決され、八女産のお茶は八女茶という名称で広まっていきました。

ちなみに、許斐久吉さんの茶園は許斐本家(このみほんけ)として今も受け継がれています。

八女中央大茶園の設立

終戦から約25年ほど経った1973年、広大な土地を開拓した八女中央大茶園の運営がスタートしました。

八女中央大茶園は県営のパイロット事業として、1969年から5年間かけて作られた大規模な共同茶園です。

その大きさ、なんと103ヘクタールにもおよびます。

と言われてもピンとこないと思いますが、100ヘクタールで東京ディズニーランド2つ分くらいです。とんでもない広さだ!

茶園は緩やかな傾斜になっていて、頂上には展望台があります。

とても景観がいいので、観光にもおすすめです。

今後の八女茶はどうなる?

さて、八女という地にお茶が伝わってから、「八女茶」と呼ばれるようになり、お茶の名産地になるまでの歴史を見てきました。

その歴史の中でも玉露の存在は大きく、八女市周辺の地域は全国茶品評会の玉露部門にて、なんと18年連続で産地賞を受賞しています!

今では「玉露といえば八女」と言えるほどの名産品になりました。

そんな八女茶ですが、今後どんな方向に展開していくのでしょうか?

これから注目が集まりそうな話題をピックアップしてみました。

八女紅茶が復活

八女茶の歴史:八女紅茶が復活

現在八女では、明治時代に輸出されていた八女紅茶が復活を遂げています。

復刻版ではなく、かつての伝統製法を改良した新しい和紅茶です。

茶葉やティーバッグ商品はもちろん、八女紅茶を使ったスイーツなどの商品が多数販売されています。

和紅茶の復活は全国的なブームで、2000年以降あたりから紅茶の開発に乗り出す農家さんが増え始めたようです。

八女では2010年に「八女産(やめさん)地紅茶(じこうちゃ)研究会(けんきゅうかい)」という団体が発足しています。

和紅茶って海外の紅茶と何が違うの?

和紅茶は日本で栽培された茶葉を加工した紅茶のことです。

正解のレシピがないので、加工する人の趣向によって味に幅があるのが和紅茶の特徴ですが、一般に海外産の紅茶よりも優しい甘みがあると言われています。

これは風土や気候の違いと、品種の違いなどが影響しているようです。

ちなみに茶樹の品種は、緑茶向きの品種と紅茶向きの品種がありまして、一般に和紅茶は緑茶向きの品種で作られることが多いので、海外産の紅茶よりも日本人の舌に合うと言われています。

さらなるハイブランド化へ

八女茶の歴史:さらなるハイブランド化へ

近年では、ペットボトルのお茶の台頭により、茶葉の売れ行きが低迷しています。

そうした問題はどこの地域も抱えていますが、八女の名産である玉露は主に山間部で作られているため、平坦な地域に比べて機械化が難しく、どうしても人の手に頼らざるをえません。

さらに追い打ちをかけるように農家の高齢化地域の過疎化後継者不足といった問題も抱えており、廃業する八女茶農家も少なくないのが現状です。

八女ではこれらの課題の解決策として、地域をあげて八女茶のハイブランド化に取り組んでいます。

そのひとつが「八女伝統本玉露(やめでんとうほんぎょくろ)」です。

「八女伝統本玉露」でハイブランドをアピール

八女伝統本玉露とは、伝統的な製法にこだわって丁寧に作る玉露です。

徹底した品質管理によって、厳しい条件をクリアした商品のみが名乗ることを許されています。

伝統本玉露は非常に手間がかかるため、他のお茶に比べてかなり単価が高いのが特徴です。

特に品質の高い商品につけられる「GIマーク」がついた商品は、100gで1万円以上することもあります。

こうしたハイブランド化の先にあるのは、ずばり海外進出です。

オシャレ感ただよう公式Instagramの運用や、高級レストランでワインの代わりに玉露を提供するイベントを開催するなど、海外に向けたプロモーション活動に注力しています。

八女茶の歴史まとめ

八女茶の歴史まとめ

八女は室町時代からお茶の栽培が始まった地域で、比較的歴史があるものの、有名になったのは近代になってからでした。

特に明治時代の八女紅茶の輸出には目を見張るものがあったようです。

その後、玉露が開発されて以降は玉露の名産地として名をはせました。

今後はさらなるハイブランド化海外進出を目指して、地域一丸となって取り組んでいます。

注目は復活した「八女紅茶」と、品質を追求した「伝統本玉露」です。

参考リンク

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